コラム:3年、5年、10年、その先の「未来」

コラム:3年、5年、10年、その先の「未来」

2020-08-18
ニュース

全く未来を変えられてしまった。

広がっていく感染症のニュース見ながら私はそう思った。

未だ感染症は止まるところを知らず広がり続けている。

人々の繋がりはすっかり光ファイバーが代替し、コミュニケーションのほとんどが無線LANで行われる光景には、デジタルネイティブである私たちでさえ戸惑いを覚えた。

変わっていく毎日や途切れることない緊張感、それらにまるで支配された生活の中でふと

「本当に、未来は変わったのだろうか?」という疑問が頭をよぎった。

確かにカレンダーの予定は全て台無しになってしまったし、まだ先の見えない状況が続いているが、それは今だけではないのか。たった数年でまた、あのいつもの日常へ回帰するのではないか。そんな、ある意味では希望的で、またある意味で絶望的な問いをここでは少し考えてみたいと思う。

古代ギリシアの哲学者はスコレー(間暇)から生まれた。

人は暇を持て余すと自ずから生産へ向かうようだ。

そうした人間の性質は現在でも変わらずに残っていると思う。その証拠に四月はどこのスーパーでも小麦粉がだいたい売り切れていて、多くの人がお菓子作りや新たな料理に挑戦しているのが伺えた。そういった創作へと向かう好奇心の芽生えは美術にも少なからず向けられていて、絵を描き始めたり、家族で一緒に制作したりすることもあっただろう。そして、この時代における技術進歩の恩恵として、自宅にいながら世界中の名だたる美術館へ鑑賞しに行くことも可能になった。

このような突然の間暇によってもたらされる創作や鑑賞は人々のインスピレーションを誘発し、文化や生活に大きく変化を与える。

──────────────そう思っていた。少なくともこれまではそうだった。これまでの感染症の流行はニュートンの微積分法の発見やボッカチオの『デカメロン』など様々な文化や人類の進歩を与えてきた。

しかし現代においては本当その考え方は適用できるのだろうか。

少なくともテクノロジーと現代美術の関係性というのはあまり変わらないような気がしている。確かに急速にオンライン化は進んだ。だからと言って、それは新しく無から生まれてきた習慣ではなく、もともと個人の生活の隙間に潜んでいたもので、単にそれが拡大したにすぎないのではないか。例えば、昨年のあいちトリエンナーレ2019の愛知県美術館会場に展示されていたエキソニモの作品『The kiss』などにその関係性は見られる。美術作品というのは自分を写す鏡であり、世相を覗く望遠鏡でもあるのだ。

《The Kiss》2019 Photo: Ito Tetsuo あいちトリエンナーレより

『情の時代』というテーマは一瞥すると現在のこの状況を知っていたのではないかとも思えるものだが、冷静に見てみればそうでもない。情報の時代、いわゆる「IT革命」が起きている現代は、テクノロジーの急激な発展によるパラダイムシフトの真っ只中だ。押し寄せるパラダイムシフトの波は穏やかかつ強かに感染症の猖獗を包み込みそれ自身変化を加速させる。

つまり、かつては感染症という災害が歴史の転換点になりうる出来事であったが、現代においてその影響力は相対的に漸減してしまっているのである。

ただ、漸減というだけで感染症が及ぼす未来への影響が全くないというわけではない。

普段行っていたコミュニケーションがオンラインに移行したことによって空間性、同期性の重要性が再認識されたことは多少これからの技術の方向性を変えたのかもしれない。同期性というコミュニケーションにおいて見落とされがちだがその本質を形成する性質は、今日の技術においてはまだ完全に完成されてはいないためだ。

しかし、この命題に対して私たちは気がついていなかったかというとそうではない。

5Gの到来やIoTの発達によってそれらが意識されることは当然であって、もしこの感染症がきていなかったとしてもそれ相応には発展し完成させていっただろう。IT化の恐るべき影響力によって私たちの進む未来は物理法則が大きく変わるようなことがない限り収斂し確定的に決められていくのかもしれない。

今日の文化形成過程においてそれぞれの事象に対する影響は属性や歴史的経緯を客体化した上での相対化を行い考えるべきである。

一年や二年のようなミクロな視点ではなく、それよりもずっと大きいマクロな視点で見たとき、私たちの歴史は収斂し「ひとところ」に落ち着いていくのではないだろうか。

その「ひとところ」はシンギュラリティかもしれないし、いつかくる人類の消滅かもしれない。いずれにせよ「人間の時代」は終わり、次なる「ポストヒューマン」の時代へと足を踏み込んでいるということは、朧げにしかし誰もが確実に感じている「未来」なのである。