今回取材したのはgalleryNで行われた森部英治氏の展覧会「地球に接吻」
ギャラリーからはみ出るほどに展示された大きな馬車や、その馬車から転げ落ちた牧草が転がり床一面に散乱しているところから大きなインパクトを受けます。奥の和室にはほし草の平面作品や野生の馬を撮影した映像作品が展示されていました。それではご紹介いたします。
脱輪した馬車が作る空間
今回の森部氏の展覧会でもっとも大きな部分を占める作品がこの大きな馬車だ。
そしてこの馬車は脱輪をし、積んでいたほし草が後ろに散乱している。
中には馬が入っていたのだろうか馬車の壁は蹴り破られ、馬も人間も散乱したほし草と馬車を残してどこかへ去っていったような光景が存在していた。
空間にはほし草の匂いがいっぱいに広がり肺を満たす。
この演出も鑑賞者を牧草が生い茂った道端で怒ったこの脱輪事件の様相をさらに克明に想像させているようにも思える。
また、絵画作品も展示されているが何もないただ平坦な丘がなめらかに描かれているのみである。
この表現には一体どのような文脈が含まれているのだろうか。
生い茂った草を食む馬や、ナポレオンと愛馬マレンゴのようにこの広々とした丘を疾走しているようなイメージが膨れ上がってくる。
それは偏に馬車とほし草があるからではなくこの余白がそうさせているのだろう。
生きるという足枷
奥の和室では実際に森部氏が野生の馬が生息する地域に訪れ撮影した映像作品が展示されている。
野生の馬というとあまり馴染みがなくイメージが湧きにくいが、実際に見てみると野生で生きているため余計な脂肪が付いておらずスレンダーになっていて素朴な美しさがある。
そんな彼らが延々と草を食むこの光景に森部氏のメッセージが含まれているように感じた。
「野生」という言葉には人の手がつけられていないという意味も含まれる。
人の手がつけられていないということは、野生の彼らは「自由」であるのだろうか。
ほとんどの場合、野生動物は食料の確保・捕食に大半の時間を費やす。馬も例外ではない。
確かに彼らは人間からの自由を獲得している。
しかし、本当に自由なのだろうか。その問いが深く私たちへ向けられているようである。
まとめ
「野生」=「自由」という考え方は間違ってはいないが、彼らもまた生命からの束縛を受け生きている。私たちも現代社会で営みを紡いでいく中で様々な不自由や制限に打ちあたる。今日、経済発展を成し遂げた地域において「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことは達成できたけれども自由を獲得できたかと断言することが私たちはできるのだろうか。
前回このギャラリーで行われた展覧会
https://atie.site/nagoyaart/event/tikarakosopawa/展覧会情報
「地球に接吻」
会期:2019.11.16 ~ 12.01
open:13:00 ~ 20:00
場所:galleryN